るな有難う
るな ごめんね
しんぱいさせたね
じじはわがままばかりしてたからびょうきになってしまいました でも もうだいじょうぶです おいのりしてくれたからかみさまがまたいのちをくださいました
ほんとうはもうしんでしまうところでした
でも るなのねがいを おおくのおともだちのせいえんを かみさまがきいてたすけてくださったのだとおもいます
やさしさをいっぱいいただきました ありがとう ありがとうございました
るなのじじより
ご心配頂いた皆さん 本当に有難うございました。なんとか蘇生いたしました。 近々復帰できると思いますのでまたよろしくお願い致します。
じじをたすけて
るな 4さいです
じじはきゅうきゅうしゃでいったきりずっとかえってきません
じじはどうしたんでしょう
びょういんへいっても るなはじじにあわせてもらえません
るなはとってもしんぱいなの
じじ はやくかえってこないかな
るなはおいのりしてるの
じじがいつも るなのためにしてくれてたように
じじが げんきになって はやくかえってくるように
じじ しなないでね じじ かえってきてね
るなは おいのりしてます
じじを たすけてください
正直者は馬鹿をみなかった話
今日は暑い暑い夏の新潟競馬へ行った時の話をしましょう。
地方開催は楽しさいっぱい
日本中央競馬会には十ヶ所の競馬場があります。札幌、函館、福島、新潟、東京、中山、中京、京都、阪神、小倉で中央開催は東京、中山、京都、阪神で行われますが、夏競馬は函館、新潟、小倉などのローカル開催となります。ローカル競馬は競馬とは別に、いろんな楽しみがあり結構人気があります。例えば福島だと飯坂温泉、函館だと湯の川温泉などに泊まって旅の気分を楽しんだり、ご当地の美味しいものを食べ歩いたりとか、中央では味わえない面白さがいっぱいなのです。だから私達競馬好きは六、七人でよくローカル競馬に出かけていました。
嘘!思わぬ大金が手に
その夏、新潟競馬へ行くことに話が纏まり、世話役の私が取引先に頼んで、新潟市内の某ホテルの宿泊予約を取り、金曜日の夜車で東京を発って翌朝新潟競馬場に着きました。新潟競馬場は市内からかなり北寄りの豊栄にあり、直線千メートルのコースがある広々とした素晴らしい競馬場です。私達は1レースから最終レースまで一日競馬を楽しみましたが、堅いレースは滅茶苦茶堅く、一寸本線が外れるとかなりの高配当が付き、結構穴馬券も飛び出すという傾向がありました。私はいろんな種類の馬券を何レースか取りましたが、何時もの習慣で当り馬券をみんなポケットに仕舞い込んでいました。最後に纏めて払戻しを受けるのです。
今ではどこでも全て機械化されていますが、当時はまだパートのおばさん達が窓口で払戻し業務をやっていました。この日の私の払戻し金額はトータルで二十万円一寸位でしたが、窓口で差し出された金は六十万円もありました。
「これおかしいですよ。そんなにないですよ。」
咄嗟に私は言って金を返し、計算し直して貰いました。
「間違いありません。どうぞお受け取りください。」
そっくり金はまた私の手に戻ってきました。
「違いますよ。半分も無いですよ。」
「いや、間違いありません。」
何度も何度も同じことを繰り返しました。もう他の客は誰も居なくなりガードマンもみんな集まって来ました。窓口のおばさん達もみんな手がすいたので寄って来て、みんなで計算のし直しをやりましたが結果は同じことです。
「多いんだったらいいじゃないか。貰っとけよ。」
「何を何時までもやってるんだ。呉れるものは貰えよ。」
仲間達からも責めたてられ、だんだん自信が無くなりました。もしかして私が間違っているのかもしれない。
「これだけ何度も計算し直して間違っていないのですからどうぞ受け取ってください。お客さんの勘違いですよ。」
狐に抓まれた様な気持ちでしたが、とうとう言われるままに受け取りました。
「おお、今夜は豪勢にいこうぜ。」
「古町にいい所あるよ。予約入れとくか。」
もう仲間はみんなその気になっている。しかし私はどうも腑に落ちないし浮かれた気分になりませんでした。
夢は一瞬に覚め最悪の事態が
私達七人は全員、三原色の縦縞の紙風船を二つ折にしたような帽子を冠り、派手なアロハシャツに半ズボンという何とも奇妙な格好をしていました。駐車場に着くともう車も殆どいません。私達を探すのはいとも簡単で直ぐ見つかります。
「お客さーん。お客さーん。」
三人のおばさんが追っかけてきました。
「済みません。お客さんの方が正しかったです。私達が間違えていました。」
ということで夢は一瞬にして覚め、大騒動は幕引きになりました。
「ぐずぐす言ってるからだよ。馬鹿みたい。」
「何時も取られてるんだから貰っておけば良かったんだよ。」
「何で黙って貰って帰らないんだよ。」
楽しみにした夜の当てが外れて仲間達はカリカリして、私に非難の声を遠慮なく浴びせかけます。
「仕方無いだろう。もともと間違いだったんだから。」
むっとした私も言い返し何だか雰囲気が悪くなってきました。みんな黙り込んだり寝た振りしたりしているうちに車は予約していたホテルに着きました。ここでまた大変な事態が起きてしまいました。
フロントで予約が入っていないと言うのです。そんな馬鹿なと一悶着、結局予約の日にちが一日ずれていて、当日では無かったことが判明しました。さあ大変、宴会どころか寝る所も無い。ホテル側で方々電話をして万代橋の近くに旅館を取ってくれ、泊まる所はなんとか確保できた。
「もうヤケクソだ。トコトン行くぞ。」
収まらない連中は皆で繁華街へ繰り出しましたが、私は何だかひどく疲れ、遊ぶ気にもなれなかったので具合が良くないからと断ってひとり先に休ませて貰いました。
神は正直者を見捨てなかった
翌日、日曜日はまた朝から競馬場へ向いました。みんなは昨夜の行状が影響してさっぱり気勢が上がりません。私はこの日も朝から絶好調で一人ではしゃいでいました。馬券も面白いほど的中し、相当余裕ができたのでお終いのレースではドーンと纏めて投票したところ、これがまたものの見事に大当たり、昨日の六十万円どころかその倍額以上ものご褒美を頂戴してしまいました。
気分を好くして帰路についたのは言うまでもありません。阿賀野川を渡り、信濃川を越して新潟の街を後にして米どころ新潟の田んぼの間を走り続けると、青々と広がる稲の波の中に地方競馬を開催する三条競馬場がありました。小さくて粗末な観客席、狭くてちっちゃなコース、中央と地方の格差をまざまざと見せていました。いろいろあったけれど、まあまあ楽しかった競馬の旅を終えて夜の街道を突っ走り、明日から仕事をする東京の雑踏へ帰ってきました。
この時のことを今でもみんなによく言われます。
「馬鹿正直だから損するんだよ。」
私は笑って誤魔化しますが、決して損した訳じゃございませんよ。もともと貰うべき金じゃ無かったのですから。ずるい事をしなかっただけでしょう。そう腹の中で言ってやるんですよ。黙って貰って帰っていたら、翌日は二日酔いで朦朧として推理もろくにできず惨敗してたでしょう。これで良かったんですよ。ご褒美もたくさん頂きましたし感謝、感謝です。
正直者は馬鹿などみませんよ。神様は何時もちゃんと見ていて、時々人をお試しになるんでしょうね。
病魔に引き裂かれた幼心は
広君が小児麻痺で右足を使えなくなったのは小学校四年の時でした。
仲良しの友が病魔に
私と広君は同い年で幼い頃からの遊び仲間でした。二人とも野球が好きでキャッチボールをしたり、プロ野球は共に阪神フアンで好きな選手の写真や色んなグッズを集めて自慢しあったりしました。将棋も好きで何時も駒を袋に入れて持ち歩き、地面に将棋盤を書いて日の暮れるまで勝負を競ったことも度々でした。川で魚を取ったり、山でメジロを捕獲して飼ったり、「竹ひご」で鳥篭をつくったり何時も一緒に楽しく遊んでいました。
その日も一日一緒に川に入って魚を追いかけて遊んだのですが、夜になって広君が高熱を出し入院したのです。広君の病気は小児麻痺でした。何ヶ月かの闘病の末、退院して来た時は右足が動かなくなって松葉杖にすがる変わり果てた姿になっていました。
幼い心の苦しみ
そんな広君の姿をみて私は何故か怖気づいて近寄れませんでした。何と言って慰めてやればいいのか、どんな優しい言葉をかければいいのか、何をしてあげればいいのか幼い私には解りませんでした。と言うか、広君だけがこんな姿になったことに私は申し訳ないというか、罪悪感のようなものさえ感じていました。広君のお母さんは自分の息子の不幸を嘆き、私のことを妬ましく思っているかも知れない。きっとそうだ。「○○ちゃんは一緒に遊んでいたのに何でもなくて良かったね。」と言われるその一言さえ私の小さな胸にグサリと突き刺さりました。母は口には出さなかったけれど「○○が無事で良かった」と内心思っていたに違いありません。
私が勇気を出して明るく声をかけて、今まで通りに接していけば良かったのでしょう。だが私には何故かそれが出来なかったのです。私は部屋に閉じ篭り独りで泣きました。不甲斐ない自分を責めていました。学校に行けば先生やクラスメートがみんな広君に同情し、反面私を冷たい目で見ているように思えて来るのでした。もう一つこんなに痛んでいる小さな心があることを誰も気づいては呉れません。こうして私は独りで自分だけの殻に閉じ篭るようになって行きました。
閉ざされた心のまま別れ
広君は近所で一つ年上の清さんに自転車で送り迎えをして貰い、雨の日も風の日も休むことなく学校に行きました。だんだん元気を取り戻し級友達とも仲良く話したり遊んだりするようになりましたが、私には近づいて声をかけることも無くむしろ避けているようにさえ見えました。
中学校を卒業する時、清さんは広君を毎日自転車で送り迎えして通学を助けた善行に対して特別表彰を受けました。みんなが大きな拍手を送り、私も本当に清さんは大変なことをよくやり遂げたと思いました。しかし直ぐ、思い過ごしかもしれないけれど私に対しては非難の声と罵倒が浴びせられているように感じてしまうのでした。
清さんが卒業して居なくなったので、今度こそ私が代わってやる番だと思って勇気を出して申し出たのですが、あっさりと断られてしまいました。広君は「もう自分の力で生きていく訓練をしないといけないから」と一人で家を早く出て登校し始めました。それは事実で素直に取ればよかったのでしょうが、私には拒絶されたという思いが重く圧し掛かってきました。周囲から「あいつ二匹目の泥鰌を狙ったな」と囁かれているようですごく嫌な思いをし、止せばよかったと後悔することになったのです。こうして二人の仲はどんどん遠く離れて行くのでした。
広君は中学校を卒業すると大阪の印刷会社に見習い工として就職し、私は高校進学のため家を出て町の下宿に入り、さらに大学進学のため東京へ来てしまい、音信は完全に途絶えてしまいました。
歳月は流れ再会
十数年の歳月が過ぎて、私は結婚し次々と子供ができて裕福ではないけれどまずまず人並みの家庭を持ってささやかに暮らしておりました。そんな私の家にある日突然、本当に突然松葉杖をついた広君が訪ねて来てくれたのです。全く予期せぬことだし何のもてなしもできませんでしたが、驚きと喜びとで私の心はてんやわんや、何を言ったのか、何をしたのか覚えていない程でした。はっきり言って私はもう少年時代のことは忘れてしまっていましたし、広君のこともすっかり忘却の彼方でこんな日を思ったこともありませんでした。なのに広君は私のことを覚えていてくれて、不自由な体で大阪からわざわざ東京まで訪ねて来てくれたのです。
私も苦しんだけれど、広君もきっと同じように苦しんでいたのだと思います。私の苦しみにもきっと気付いていて、長い年月を経て今、言葉にはしないけれど広君が「お互いもう止そうよ。子供の頃の仲良しに戻ろうよ」と言ってくれたのでしょう。勿論私も無言で答えました。「うん、楽しかったね。野球は負けても将棋は負けないぞ」と。
苦しんだことなどもうどうでもいいんです。広君と心を開き合えたことが今とても嬉しいから・・・
久し振りに美味しいお酒を飲みました。嗚呼人生・・・喝采
長かった或る女の一生
Yupaさんからドラマチックバトンを回されたので何か書きたいのですが、どうもあまりドラマチックな生き方をして来なかったのか好いネタを思いつきません。取り敢えず身近なところにあった話をさせて頂いてお茶を濁すこととします。さて、ドラマチックかどうかは分かりませんが・・・
或る女の一生
その時、カネさんはもう九十歳になっていました。腰も90度に近い程曲がっていました。
17歳で農家に嫁ぎ男三人、女二人の子供を産んだが、夫に若くて先立たれ、殆ど女手一つで畑や田んぼを耕し、子供達を育てました。畑はかなりの傾斜地で、田んぼは土の深い棚田でしたから、農作業も並大抵ではありません。でもカネさんは愚痴の一つも言わずに頑張り通しました。幸い畑の麦や芋や豆類、野菜はみな良く育ち収穫は上々でした。田んぼの米も豊作続きで生活に困るようなことは無かったようです。
最初の孫育て
子供達がやっと成長して一人前になると、男の子は次々と軍隊に召集され、女の子は適齢期になって嫁入りしてしまい、長男の嫁が死ぬ前に産み、残してくれたたった一人の孫の明夫を頼りに育てることになりました。もうとっくに五十歳は過ぎていました。
大東亜戦争勃発
昭和16年12月8日「天佑ヲ保有シ万世一系ノ・・・・日本帝国天皇ハ忠誠勇武ナル汝有衆ニ示ス・・・・朕茲ニ米国並英国ニ対シテ戦ヲ宣ス」と大東亜戦争開戦の詔書が公布され、日本は第二次世界大戦に突入したのであります。カネさんの次男は鉄道技師、三男は通信技師で共に満州で軍務に就くこととなり、病弱の長男と孫の三人暮らしでした。
はじめは優勢にみえた戦も次第に旗色が悪くなり、日本は物資が底をついて何もかも強引に供出させられるようになっていきます。国民の暮らしは日を追って窮迫し、B29など米軍の戦闘機が日本の上空を殆ど思いのままに飛び交って、上空から焼夷弾をバラバラと落として行くようになりました。大都市が次々と空襲で焼け野が原となり多くの国民が犠牲となりました。
孫が特攻隊に招集され戦死
18歳になった孫の明夫にも赤紙(召集令状)が届いて、明夫は特攻隊に入れられました。人間魚雷です。粗末な飛行機に行きだけの片道分の燃料を積んで飛び立ち、敵艦めがけて突っ込むのです。後になって判ったことですが、この特攻隊、実際には突っ込む前に殆ど撃ち落とされて効果なく、ただ尊い若者の命が捨てられただけだったようです。
カネさんの大事な孫の命もこうして無残に失われ、カネさんの下へは遺骨さえも帰って来なかったのです。明夫は出征する前日、持っていた文房具や本、衣類など全てを親戚や近所の子供達に分け与えました。子供達は何も分からず物の無い時代ですからただ喜んでいましたが、今、カネさんの口にすることの出来ない気持ち、死にに行く明夫の胸の内を思うと、何と悲しくつらい別れだったのでしょう。
昭和20年8月6日 広島に原爆投下
昭和20年8月9日 長崎に原爆投下
昭和20年8月15日 日本が無条件降伏し終戦
敗戦と息子の再婚で大家族に
カネさんの満州に居た息子達は抑留されて直ぐには帰国できませんでした。カネさんは長男と二人だけになってしまいました。戦は終わっても街は焼け野が原、食べる物さえ無く、人々は飢え苦しんでいました。そんな折、カネさんに明るい話が飛び込んできました。もう五十歳を過ぎた長男の再婚話です。こんな山奥の農家の五十男のところへ嫁に来る女性が普通なら無いことでしょうが、大阪で六人の子供を抱え身寄りの無くなった婦人が、親子が生きるため、住まいと食料を求めてやって来たのです。カネさんの家は急に賑やかな大家族になりました。それはそれでまた大変なことでした。なにせ百姓なんて全くしたことも無い都会人達です。大勢いても何の役にもたちません。カネさんの苦労が増えただけでした。
二度目の孫育て
嫁さんが連れて来た子供達は成長して町へ帰っていったり、世の中もだんだん落ち着いて少しずつ生活の目途が立つようになって来ると、このご婦人は生まれたばかりの子供を置いて大阪へ帰ってしまいました。カネさんはまた曾孫のような孫を、赤ん坊から育てることになったのです。でも笑顔を失っていたカネさんが元気を取り戻し、明るくなってきました。
二度目の孫の伸太は順調に育ち、優しくてとても良い子になりました。カネ婆さんの野良仕事を手伝い、年取ったカネ婆さんをいたわり大事にしていました。自分の境遇を嘆くでもなく恥らうでもなく、素直で明るく、誰にでも優しく接し、みんなが褒める好青年に成長していきました。
伸太は働きながら高校を卒業し、某電気メーカーの工場に就職しましたが、持ち前の根気よさと真面目さで技術も向上、人気もよくてとんとん拍子に昇進していきました。職場でもみんなに好かれ、素敵な恋人もできました。この女性がまた後々カネ婆さんの世話を大変よく見て本当によく出来たお嫁さんになるのです。
孫の結婚式
今日は伸太の結婚式だったのです。カネ婆さんがどんなに喜んでいるだろうと思いましたが、そんな様子は全くありません。決して嫌な顔とか怒っている顔とかではなく、もう無表情と言ってもいいかもしれません。あまりにも長い道程であり、あまりにも色々あり過ぎて、何を感じてなにを喜んでいいのか分からなくなっていたのでしょうか。話しかけても軽く頷くだけ、お祝いの言葉を述べても喜んで応えてくれることも無い。嬉しくない訳が無い。心の中で泣くほど嬉しい筈だと思っても、カネ婆さんからそれが伝わってこないのです。喜びとか悲しみとかそんなものはもう超越してしまったのか、なんとも不思議な気持ちにさせられました。
カネさんは、そのニ三年後に93歳で長ーい、ながーい人生の幕を閉じました。
万馬券的中証明書 [競馬]
この秋の中山競馬は好成績を収めて終わりました。万馬券は三つだけでしたが高配当の馬券をいくつも取らせて頂きました。かわいい馬達が暑い夏を無事に過ごして、みんな元気で帰ってきて期待に応えてくれたということです。嬉しいですね。
母が機織るトンカララ
私が子供の頃、納屋の二階にある機織部屋で母は毎夜遅くまで木製の手織り織機にむかって機を織っていました。昼間は使用人の先頭にたって農作業をし、食事時になると家族や使用人の食事の支度をする。朝はまだ暗いうちに起きて家事をこなす。母が何時寝ているのか不思議なくらいでした。
母が右手で、ぶら下がっている綱を引くと横糸のオサがカラカラと左右に行ったり来たりする。足でペダルを踏むとクロスした縦糸が上下に動いて間をオサが潜り抜けていく。左手でトントンと締めていく。
トントンカララ トンカララ トントンカララ トンカララ
この単純な作業を何時間も母が繰り返す。私は面白くて側で見ているのですがそのうち眠くなって寝てしまいました。母は何時寝たのでしょうか。私を寝室に運んで寝かせてからまた何時間も機を織り続けていたのでしょう。
母は畑に桑の木を植えて養蚕をし、繭から生糸を紡いで、その糸で絹布を織っていたのです。できた布を晒して草木染めや絞り染めなど色々工夫してやってました。いいものは京都の染物屋に送ってメイセンという反物にしていました。この反物を使って母は着物を何枚も何枚も縫い続けました。大勢いる娘達が嫁にいく時、箪笥を一杯にして持たせるためだったのです。
繭から生糸をとる時できる副産物の真綿は肌掛けなどの布団にしていました。布団は真綿だけではなく、畑に綿の木を植えて綿をつくって綿打ちに出し、その綿を使って立派な布団を縫っていました。この布団もみんな子供達がいずれ出て行く時に持たせるためのものだったのです。姉達は結婚する時みんな母の布団を持っていきました。勿論私も東京に出てくる時、母の手作りの寝具一式を貰ってきました。母の作った布団は何年経っても天気のいい日に干すと、ふわふわとふくらんでとても気持ちのよい寝心地でした。原材料から製品になるまで全てが心のこもった母の手作りです。まるで母に抱かれて寝ているような不思議な気持ちになりました。
母は決して頑健ではなくむしろ華奢な身体で七人もの子供を育てて送り出し、父の最期を看取った後は一気に衰えるかと思いましたが、若返ったかと思えるほど元気になって家を守り続けました。今思うと気持ちが張り詰めていたのかもしれません。朝晩仏壇に経をあげ、神棚に祝詞を奉げるのです。みな父が居なくなってから覚えたものです。年をとって長くて難しいお経や祝詞を覚えた暗記力には驚きました。そんなにして母は死ぬまで何を祈り続けたのでしょうか。
久々に母の様子をみに郷里へ帰った時、誰も居なくなった古い実家で、母が独りでお雛様を飾って呆然と見とれている姿をみて私は涙が後を絶ちませんでした。毎年お節句には独りでそうしていたのです。
嫁ぎゆきし 子らの幼(ち)さき日 胸に抱き
老母(はは)は独りで 雛をかざりぬ
父が死んで六年の歳月が流れました。
母の危篤の報せを受けて、急いで駆けつけました。といっても遠い田舎です。五時間はかかります。もう死に目には会えないかもと半ば諦めていましたが、母は最後の力を振り絞って私を待っていてくれました。到着して母の手をとると、母は安堵の表情をみせて、すぐそのまま静かに消え入るように息を引き取りました。
私は母のベッドの側にもう一つのベッドを引き寄せて、母に添い寝するような形で横になりました。うとうととする私の耳にあの心地よい音が聞こえてきました。
トントンカララ トンカララ トントンカララ トンカララ
トントンカララ トンカララ トントンカララ トンカララ
あれから何年経ったでしょうか。
・・・今も聞こえる母さんの子守唄・・・
トントンカララ トンカララ トントンカララ トンカララ
私は母さんの子供に生まれたことを神に感謝します。
母さんの子に生まれたことがすごく嬉しい。
母さんの子供だったからとても幸せです。
母さん私を産んで精一杯育ててくれて有難う。
大きな大きな愛情をたくさん沢山有難う。
待望の秋競馬絶好調 [競馬]
待望の秋競馬が中山で幕を開けました。目白押しのG1レースを前に軽く小手調べ、土日とも絶好調でほくほくの成績を上げることができました。
土曜日は6レースが面白そうだったので柴田騎手のマイネルーシッド(一番人気)とスペシャルシチー(三番人気)から8番人気のクロノセンリツ、9番人気のメガミを馬連、三連複で10枚ずつ買いました。
結果は馬連5-16で9200円、三連複5-16-18で44000円をGETできました。
日曜日は7レースで万馬券を取りました。
一番人気のトミケンラピット、二番人気のヤマニントドロワ三番人気のホッカイショコラはそれぞれ難があって信頼性がない。荒れる要素十分とみて6番人気のエレアシチーを抜擢し4番人気のミラクルレイザー、7番人気のタイニーモデルを絡ませた馬券を買いました。
結果は読みどおりで、馬連4-8で5850円を10枚、三連複4―6―8で15650円の万馬券を一枚取りました。
その他にも土曜日4レース、日曜日7レースが的中し思わぬ好成績を上げることができました。この調子で暮れまで続く大レースを制覇したいですね。
解散総選挙に思う
郵政民営化法案が衆院でぎりぎり可決されたものの参院では否決されて不成立となって、小泉首相は衆院解散という前例の無い手段に出て総選挙が行われることになった。この選挙全く分からないことだらけで投票を前に迷っているのが本音です。
自民党は郵政民営化を唱えていた小泉さんを総裁に選んでおきながら、なぜ今更民営化法案に反対する人がいるのか。小泉人気を利用しただけだったのか。
郵政民営化は議員のみならず国民にも賛否が拮抗し、まだまだよく話し合って行く必要があり、その為に取り敢えず公社化したのではないのか。首相は何故そんなに民営化を急ぐのか。民営化して本当によくなるのか。道路公団のような名ばかりの民営化では意味が無い。
国会議員は選挙で選ばれた国民の代表であり、国会で否決されたということは国民がNOと言ったのと同じではないのか。改めて総選挙で国民に直接賛否を問うという小泉首相のやり方は納得いかない。議会制民主主義を否定するものと言わざるを得ない。
総選挙で選ばれた衆議院議員は向こう四年間の任期がある。四年間は国政を担う訳だが郵政民営化という一議案のみで議員を選ぶ総選挙を行うというのはあまりにも無謀ではないか。外交、経済、年金問題、その他重要議案は山積している。郵政民営化に賛成した人が他の全てについて小泉首相と同意見であるはすがない。また同じことが繰り返される危惧が無いと言えるのか。
小泉首相は人気をとる達人だ。「改革」という一言で何もかも片付けようとしている。メディアはまんまと手に乗って「劇場」型とかと面白おかしく報じている。多くの人が「改革」と言う言葉に酔わされては居まいか。今回反対した人がみな改革に反対したのではない。改革には賛成だが中身に反対している人が多いのだ。「改革」の中身をよく吟味し、もっとも多くの人が納得いく真の改革であるかどうかを見極めなければならないと思う。
民主党はじめ各野党は一応マニュフェストを発表したが、はっきり言って十分理解できるとは言い難い。突然降って沸いた選挙で慌てて造ったという感が強い。政権の座に無くても普段から重要事項についての主張や、政権をとった時どうするのかしっかり国民に納得がいくよう説明できるものを準備していて貰いたい。
選挙当日何処の誰に投票するか、まだ数日の余裕があるので上っ面だけの詭弁や煽動的な派手な言葉に騙されないようよく考えて投票しようと思う。