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長かった或る女の一生

Yupaさんからドラマチックバトンを回されたので何か書きたいのですが、どうもあまりドラマチックな生き方をして来なかったのか好いネタを思いつきません。取り敢えず身近なところにあった話をさせて頂いてお茶を濁すこととします。さて、ドラマチックかどうかは分かりませんが・・・

  或る女の一生

 その時、カネさんはもう九十歳になっていました。腰も90度に近い程曲がっていました。

 

 17歳で農家に嫁ぎ男三人、女二人の子供を産んだが、夫に若くて先立たれ、殆ど女手一つで畑や田んぼを耕し、子供達を育てました。畑はかなりの傾斜地で、田んぼは土の深い棚田でしたから、農作業も並大抵ではありません。でもカネさんは愚痴の一つも言わずに頑張り通しました。幸い畑の麦や芋や豆類、野菜はみな良く育ち収穫は上々でした。田んぼの米も豊作続きで生活に困るようなことは無かったようです。

   最初の孫育て

 子供達がやっと成長して一人前になると、男の子は次々と軍隊に召集され、女の子は適齢期になって嫁入りしてしまい、長男の嫁が死ぬ前に産み、残してくれたたった一人の孫の明夫を頼りに育てることになりました。もうとっくに五十歳は過ぎていました。

   大東亜戦争勃発

 昭和16年12月8日「天佑ヲ保有シ万世一系ノ・・・・日本帝国天皇ハ忠誠勇武ナル汝有衆ニ示ス・・・・朕茲ニ米国並英国ニ対シテ戦ヲ宣ス」と大東亜戦争開戦の詔書が公布され、日本は第二次世界大戦に突入したのであります。カネさんの次男は鉄道技師、三男は通信技師で共に満州で軍務に就くこととなり、病弱の長男と孫の三人暮らしでした。

 はじめは優勢にみえた戦も次第に旗色が悪くなり、日本は物資が底をついて何もかも強引に供出させられるようになっていきます。国民の暮らしは日を追って窮迫し、B29など米軍の戦闘機が日本の上空を殆ど思いのままに飛び交って、上空から焼夷弾をバラバラと落として行くようになりました。大都市が次々と空襲で焼け野が原となり多くの国民が犠牲となりました。

   孫が特攻隊に招集され戦死

 18歳になった孫の明夫にも赤紙(召集令状)が届いて、明夫は特攻隊に入れられました。人間魚雷です。粗末な飛行機に行きだけの片道分の燃料を積んで飛び立ち、敵艦めがけて突っ込むのです。後になって判ったことですが、この特攻隊、実際には突っ込む前に殆ど撃ち落とされて効果なく、ただ尊い若者の命が捨てられただけだったようです。

 カネさんの大事な孫の命もこうして無残に失われ、カネさんの下へは遺骨さえも帰って来なかったのです。明夫は出征する前日、持っていた文房具や本、衣類など全てを親戚や近所の子供達に分け与えました。子供達は何も分からず物の無い時代ですからただ喜んでいましたが、今、カネさんの口にすることの出来ない気持ち、死にに行く明夫の胸の内を思うと、何と悲しくつらい別れだったのでしょう。

 昭和20年8月6日 広島に原爆投下

 昭和20年8月9日 長崎に原爆投下

 昭和20年8月15日 日本が無条件降伏し終戦

 

   敗戦と息子の再婚で大家族に

 カネさんの満州に居た息子達は抑留されて直ぐには帰国できませんでした。カネさんは長男と二人だけになってしまいました。戦は終わっても街は焼け野が原、食べる物さえ無く、人々は飢え苦しんでいました。そんな折、カネさんに明るい話が飛び込んできました。もう五十歳を過ぎた長男の再婚話です。こんな山奥の農家の五十男のところへ嫁に来る女性が普通なら無いことでしょうが、大阪で六人の子供を抱え身寄りの無くなった婦人が、親子が生きるため、住まいと食料を求めてやって来たのです。カネさんの家は急に賑やかな大家族になりました。それはそれでまた大変なことでした。なにせ百姓なんて全くしたことも無い都会人達です。大勢いても何の役にもたちません。カネさんの苦労が増えただけでした。

   二度目の孫育て

 嫁さんが連れて来た子供達は成長して町へ帰っていったり、世の中もだんだん落ち着いて少しずつ生活の目途が立つようになって来ると、このご婦人は生まれたばかりの子供を置いて大阪へ帰ってしまいました。カネさんはまた曾孫のような孫を、赤ん坊から育てることになったのです。でも笑顔を失っていたカネさんが元気を取り戻し、明るくなってきました。

 二度目の孫の伸太は順調に育ち、優しくてとても良い子になりました。カネ婆さんの野良仕事を手伝い、年取ったカネ婆さんをいたわり大事にしていました。自分の境遇を嘆くでもなく恥らうでもなく、素直で明るく、誰にでも優しく接し、みんなが褒める好青年に成長していきました。

 伸太は働きながら高校を卒業し、某電気メーカーの工場に就職しましたが、持ち前の根気よさと真面目さで技術も向上、人気もよくてとんとん拍子に昇進していきました。職場でもみんなに好かれ、素敵な恋人もできました。この女性がまた後々カネ婆さんの世話を大変よく見て本当によく出来たお嫁さんになるのです。 

   孫の結婚式

 今日は伸太の結婚式だったのです。カネ婆さんがどんなに喜んでいるだろうと思いましたが、そんな様子は全くありません。決して嫌な顔とか怒っている顔とかではなく、もう無表情と言ってもいいかもしれません。あまりにも長い道程であり、あまりにも色々あり過ぎて、何を感じてなにを喜んでいいのか分からなくなっていたのでしょうか。話しかけても軽く頷くだけ、お祝いの言葉を述べても喜んで応えてくれることも無い。嬉しくない訳が無い。心の中で泣くほど嬉しい筈だと思っても、カネ婆さんからそれが伝わってこないのです。喜びとか悲しみとかそんなものはもう超越してしまったのか、なんとも不思議な気持ちにさせられました。

 

 カネさんは、そのニ三年後に93歳で長ーい、ながーい人生の幕を閉じました。

 

 


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コメント 9

おはようございます。
ドラマチックバトンありがとうございました。
しみじみとするお話しですね。
by (2005-10-15 07:52) 

U3

 母の境遇に重ねて見てしまいました。
by U3 (2005-10-15 19:46) 

sasuke

★Yupaさん ご期待にそうような記事が書けなくてすみません。

★ブラウンパパさん 我々現代に生きる者には想像もつかないような時代に翻弄された多くの人の不幸や苦しみを考えています。そんな時代が二度と来ないことを祈りながら・・・
by sasuke (2005-10-16 17:48) 

ぱんだぞう

いいお話でした。今の時代がどんなに恵まれているのか痛感しますね。
私の祖母は、94歳でなくなりました。戦争も経験しています。尊敬しますね。
by ぱんだぞう (2005-10-17 13:18) 

Baldhead1010

これだけ寿命が延びる前に孫を見ることは至難の業だったでしょうね。
by Baldhead1010 (2005-10-17 14:39) 

sasuke

★ぱんだぞうさん 有難うございます。お祖母さんもご長寿だったのですね。あの戦争の前後に家を守り、子育てをされた女性の多くいや殆どの方がどんなにご苦労されたか、本当に頭が下がります。
by sasuke (2005-10-17 16:42) 

sasuke

★baldhead1010さん  93年の人生のうちで、凡そ20年おきに三度も赤子を育てるなんて考えられませんよね。子供を育てて軍隊に取られ、孫を育てて特攻隊で殺され、また孫を育ててやっとお役目御免となった時は90歳、心身ともに休まる暇も無かったのでしょう。過酷な人生ですね。
by sasuke (2005-10-17 16:51) 

ziziblog

私にいただいたコメントの中に、「男はストレートな形で行動できない・・・」と書かれ、Yupaさんもそれについて書かれていますね。
確かに男は体裁重視でストレートではありません。照れも多分にあるかと思います。しかし女性には、それがない、率直です。
人といえども、諸々を除いて最後に残るものは、子孫を残すことに集約されると思います。女は子を産んで育てる。残念ながら男は、ほんの瞬間参戦するのみです。
羞恥心という言葉があります。それは男のために生まれた言葉のように思えてきます。子を産めない、育てられない、その恥ずかしさから生まれたと・・・。女性はそんなことを言っていられない。とにかく強いんですね。
でも最近は、女性も男性化の傾向が見られ、弱くなってしまいましたね。それを強くなったと勘違いしている傾向が・・・・。
素晴らしいお話ありがとうございました。名文に感動しております。
by ziziblog (2005-10-18 04:41) 

sasuke

ziziさん その通りですね。最近は男性が休暇をとって子育てしたり、女性が男性に伍して外で活躍されたり、かなり変わってきていますが私はどうしても女性に母親像を求めてしまいます。「男はおとこらしく、女は女らしく」などというのはもう過去のものなのでしょうか。人さまざまなんでしょうが、私は家庭をしっかりまもり身を持って子育てをしておられる女性を素敵な女性、本当に強い女性美しい女性と思ってしまいます。
by sasuke (2005-10-18 10:07) 

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